嫁がクイズを出してきた。
本を片手に「この言葉を言わなければ、子供はのびる。この言葉とは何でしょう?」
「さあ、なんだろうね。わからん。」
「答えは、『ダメ』という言葉」
嫁が嬉々として聞いてくるので、何か面白い答えかなと思ったが至って普通だった。
「それはよく聞く話しというか、半ば常識的な話しじゃないの?」
と返すと、「まあ、確かにそうかもね」と嫁は言った。
そういった本を読んで、なるほど、そうなのか!と早速実践をしてしまうときがあるが、折角だから嫁にこんな話しをした。
自分が小学生の時、クラスでも勉強のできる、いわゆる優等生の同級生がいた。
名前は戸田君としよう。
彼は、着ているものや、持ち物、住んでいるマンションからも、ちょっとお金持ちの家庭であることは想像できた。そして、その振る舞いからも、ちょっといいところのお坊ちゃんという雰囲気も醸し出していた。
当時、僕は貧乏だと思っていたので、自分とは別の世界にいる同級生のように思っていた。
当時の小学校は、先生が、子供達の見ている前でテストの採点をしたり、教室で平気で先生が煙草をプカプカしていた時代で、誰が成績が良くて、誰が馬鹿なのか誰でも知る事ができる環境であった。
だから、戸田君が成績優秀という事は誰にも知る事が出来た。同時に、僕が馬鹿な事も誰もが知っている訳だ。
ある時、戸田君と喧嘩したときがあった。子供のときの喧嘩はレベルが低く、何かあると「バカ」とかいう言葉が出てくる。それに対して返す言葉は「お前より頭いいわ。」ということであった。僕の場合、戸田君と喧嘩して、そう返されると何も返す言葉がなくなってしまった。
彼は、正しく「ダメ」と言わない親に育てられていたのだ。もっと言えば、「お前は出来る」と言われ続けたに違いない。何故なら、彼は、いつも「僕は出来る」「僕は頭がいい」と公言していたからだ。そういう言葉をいうというのは、小学校低学年の子供が自分で考え、そして口にする事はまずあり得ない。誰かが言った事をそのまま真似するのがこの時期の子供だ。そして、事実、彼の成績はよかった。その時は。
そうして、お互い、同じ中学校に進学する事になる。特に仲が良かった訳でもないが、中学3年の時に同じクラスになった。
この間、特に何があったという訳ではないが、僕は中学1年生の時に盲腸で入院した時に、貧乏が幸いして、暇な時間を学校の教科書をひたすら読むという暇つぶしをした為に、いつの間にか学年で5本の指に入るくらい成績が上がっていた。
これは、別に自慢ではなく、中学校までの勉強など、教科書をひたすら読んで覚えてしまえば、本当に成績があがってしまう程たいしたことはしていないのだ。(事実、僕の高校の成績は散々だった。)数学は問題と答えを覚えてしまうくらい同じ問題をひたすらやった。そう、僕には問題集を買うお金などなく、学校でもらう問題集しかなかったからだ。
話しがそれたが、その3年の中間試験の後、名前は非公開だが、成績の一覧がクラスに張り出された。中学校では、さすがにみんなの前でテストの点を採点するということはなかったが、テストの答案を返してもらう時に、100点を取ったり点数の高い子は、点数と名前を紹介された。
で、数学の得意だった僕は100点だった訳だが、戸田君は82点だった。そこから、成績の一覧を見ると、名前は非公開でも、ある程度は推察が出来たのだ。まあ、自分は学年で上位5位にはいっていたから、戸田君より上だということは分かっていた。でも戸田君はそれを分かっていなかった。というより、それを受け入れることが出来なかったのだと思う。
ある時、ちょっとしたことで戸田君と喧嘩になった。で、小学校のときのように低レベルのまま進化していなかった僕は、思わず、戸田君に「バカ」といったら、これまた絵に描いたように「お前より頭いいわ」と反射的に戸田君から返事が返ってきた。
自分は何も言い返さなかった。
それから、僕は公立の進学校に合格した。戸田君はと言えば、僕より偏差値の低い公立校にも不合格で、滑り止めの私立高校へ進学する事になった。
友達から聞いた話で、彼は、公立校に落ちた事に対して、公立校のデメリットについて延々と話しをした後、自分の進学する私立高校についてのメリットを延々と話し、自分の選択に間違いは無かったということを長々と説明した言うのだ。
彼は、「ダメ」と言われない教育を受けたに違いない。何故なら、彼の口から自分を否定的に捉える言葉を聞いた事が無いからだ。これを自己肯定力と呼ぶらしい。そして、「自分は出来る」「自分は頭がいい」と信じ続けたに違いない。
だが、彼は高校生になる時でさえ、客観的に、自分のレベルを判断できないという致命的な欠陥が修正できずにいた。今、自分が出来ない事を、きっと自分でも出来ると信じてがんばるのは正しい選択かと思う。だが、今、自分ができないという事実を、出来ていると勘違いする事は全く別の事だ。
何が致命的かというと、自分が出来ない事を出来ていると勘違いしている点だ。
このままでは、自分はこんなに優秀なのに世間が自分について来れない、と考えるようになるだろう。
そこで僕はこう思うのです。
「自分は出来る」と思っている子供には、時には、それでは「ダメ」だと言ってやる必要がある。
「自分はどうせ出来ない」と思っている子供には、「ダメ」という言葉の代わりに「お前ならきっと出来る」という言葉をかけてやる方がいい。
それはケースバイケースで、呪文の用に「子供には『ダメ』と言ってはいけない」と考える教育は不幸な結果を生む事もあるということだ。
そして、「今」できないことは、努力すれば「将来」出来るようになると信じること。「今」できないことを、「自分は」出来ないと勘違いする事は別の事だと教える事だと思う。
だから、「今」の自分の状況は『ダメ』だということは、客観的に自分を判断するという事で、「自分」の能力が『ダメ』と悟る事ではない。むしろ、今の自分が状況がダメな事に気づかないと、どうしてそれを克服する事が出来るようになるというのだろうかという話しである。